戦後70年で戦前の教育を振り返ることは有意義だと思います。
「朝まで生TV」の番組の冒頭部分で右派論者が、「日本が戦争していた当時、ほとんどの日本人は戦争を支持していた」と語った。
それではなぜ、そんな社会状況がつくられたのか。
情報の統制、文化の統制、言論の規制、戦争に反対すれば非国民のレッテルがはられるような、国民同士を監視し合わせるような弾圧社会がどのようにしてつくられていったのか。
そのことにもっと目を向けるべきだろうと思った。
具体的に、どのようにして軍国主義教育がすすめられていったのか、その足取りを振り返ること、記録を現代に生きる人々の記憶として残すことが将来、同様の誤りを繰り返さないためにも意味あることだと思う。
私の母が「天長節」の記憶を子どもの頃の私に語ってくれたように記憶している。
戦前の小学校教育を受けた人たちが77歳以上という時代であるだけに、軍国主義教育が行われた時代の記録は普段に触れられる形で継承されていくべきと思う。
今まであまり力点が置かれてこなかったようですが、教育勅語、泰安殿(御真影=天皇皇后の写真をまつった建物)がすべての小学校に配置され、登下校の際に最敬礼させられた、天長節(小学生は登校して天長節の歌を歌い、教育勅語の朗読を拝聴させられた)の役割があってあの無謀な戦争の歴史があるということをあわせて考えるべきでしょう。
「神国日本」「神州不滅」「忠君愛国」など今でいうISみたいに世界から孤立する思想を「日本固有の文化」とか「日本精神」といって子どもたち、若者に注入していった歴史を近代史を学ぶとき、語るときに外してはいけない問題だと思います。
以下のように、ウィキペディアが一定の記述をしています。(一部補足の書き込みもしています)
1891(明治24)年に,文部省は小学校に祝祭日のお祝いの儀式を執り行うよう指示し、その儀式のときに歌う歌を選定し1893(明治26)年8月に『祝日大祭日唱歌』を公布した.。
この儀式唱歌の中には年配の人なら誰でも知っている,「年のはじめの ためしとて」で始まる『一月一日』や『紀元節』,『天長節』の歌が含まれる。
昭和の時代に入ると、明治天皇の遺徳をたたえる明治節(11月3日=明治天皇の誕生日)が新設され、明治以来の四方節(1月1日)、紀元節(2月11日)、天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)と共に四大節(しだいせつ)としてお祝いされた。
四大節の祝日には,家の門柱には国旗が掲げられ,小学生はよそ行きの洋服を着て登校した。
儀式では、
御影(天皇皇后の写真)開扉、君が代斉唱(2回)、
御真影(ごしんえい,天皇・皇后の写真)に最敬礼し、教育勅語の奉読、
校長の訓話を聞き、
祝日の唱歌を歌う、
御影閉扉で式を終わる。
堅苦しい儀式が終わると、生徒は担任の先生から紅白のお菓子をもらい、下校した。
というようなことが紹介されている。
私たち世代を含めて11月3日を「文化の日」と認識していますが、元は明治天皇の誕生日で在位中は天長節の日、昭和の時代20年の終戦までは明治節だったことなど、こうした記述に触れることで本来の由来を知ることができた。
なぜ、文化の日なのかは判然としないけれど。
ともかく、明治の初期から国家神道の普及に政府、文部省が極めて熱心に取り組んだこと、軍人勅諭に続く教育勅語が教育の基本にすえられたことがみてとれる。
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