2015年8月31日月曜日

スイフヨウ 今朝と夕方の同じ花

スイフヨウ 今朝と夕方の同じ花。少し夕方のが露出不足で、もう少し早めに撮ってればよかったです。

2015年8月29日土曜日

姫路大手前公園での「安保法制関連法案」&「特定秘密」反対兵庫パレード

今日午後4時から姫路大手前公園での兵庫県弁護士会主催の「安保法制関連法案」&「特定秘密」反対兵庫パレードに行ってきました。
主催者あいさつ、リレーなどの後、大手前通り西側、大手前東側、みゆき通りの3コースに分かれてパレードし、駅前で流れ解散しました。
姫路会場では500人参加とのアナウンスがあったよう。
 


 

2015年8月28日金曜日

「昭和の動乱」ということばがある。

 昭和20年の終戦までの、やみくもに戦線を拡大し、1941年(昭和16年)真珠湾奇襲の後、米英に宣戦布告し、その後は戦況悪化一途というべき状況となり、諸外国への犠牲、被害とともに、日本も壊滅的な状態となった経緯を思うとき、単に昭和の時代を分析することも大事だろうけれど、当時の法制度と教育が確立された明治時代を考察することも極めて大事でないかと思うようになった。

山縣有朋の果たした役割も相当顕著に思われる。専制と弾圧の推進者とみる。
...
そして軍人勅諭、大日本帝国憲法、教育勅語の3つが一体となって軍国主義推進の役割を果たしたみるべきでしょう。

法制度と教育。いままさに、日本近代史を高校で必修化させようとの動きが伝えられている。
どのように軍国主義化がすすめられたのか、この考察は大切と思う。

 

2015年8月26日水曜日

ジェットコースター

ジェットコースター そのスリルは大きさや高さだけじゃなくて設計の要素大きいと感じた。




8月29日(土)午後4時から姫路会場は、大手前公園で「安保法制関連法案(戦争法案)」&「秘密保護法案」反対の集会(主催:兵庫県弁護士会)が開かれ、その後、パレードも予定されています。

8月29日(土)午後4時から姫路会場は、大手前公園で「安保法制関連法案(戦争法案)」&「秘密保護法案」反対の集会(主催:兵庫県弁護士会)が開かれ、その後、パレードも予定されています。

先に行われた神戸での9千人集会の第2弾とのことです。

平和で自由に発言できる社会こそ、幸福の条件と思います。

私も多くの方の参加を願っています。


 

2015年8月25日火曜日

神奈川県相模原市の中心部にある米陸軍補給廠(しょう)で爆発

24日未明(午前0時45分頃)の神奈川県相模原市の中心部にある米陸軍補給廠(しょう)で爆発が数十回続いて火柱があがったという。

軍用の火薬、爆薬等も備蓄されていたよう。米軍基地問題とその危険性にあらためて注目すべきだが、マスコミの取り上げ方は弱過ぎないか。

画像は今朝のしんぶん赤旗1面の記事。

台風15号と16号の進路予測

今日、上の画像が気象庁の午前8時の台風進路予報。

下が午前9時予測のNHKの台風進路予測。

今日一日は当地でも、用心したほうがいいようです。



2015年8月24日月曜日

戦前回帰、復古主義の原点を考える

:軍人勅諭こそ、戦前回帰、復古主義の原点と思われる。
「この国に生まれた者は、国に報いる心がなくてはならない」といきなり国粋主義、排外主義を当然のように宣言している。
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき・・・これが第1の項目の出だしである。
1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎(やまがたありとも)が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になって、山縣有朋の盟友ともいうべき数人がつくりあげたという軍人勅諭は1882年(明治15年)1月4日発布された。
19世紀後半につくられ、1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認されたにもかかわらず、戦後も右派の人々に教育勅語とともにその思想の原点に位置づけられてきた。
國際協調とか、人権尊重が基調とされる21世紀の今日にあって、当然あいいれない考え方を「日本固有の文化」「日本精神」というような形容で復活させようとする動きは軽視できない。
 
 

最後に発行された百円札のデザイン

支払停止日 1974年(昭和49年)8月1日という、これが最後に発行された百円札のデザイン。

もう、その頃にはほとんど一般世間から姿を消していましたね。


2015年8月23日日曜日

なつかしい五百円札

懐かしい500円札に出会いました。

私が子どものころは100円札もありましたけどね。

歳が ばれちゃいますね。

戦前回帰の復古主義の危険性をみる

復古主義、戦前回帰の「日本会議」と安倍内閣の関係を約1年前の記事だが、日刊ゲンダイがホームページで指摘している。

明治11年(1878年)、陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した「軍人訓戒」を元につくられたという「軍人勅諭」(明治15年・1882年)がその後の大日本帝国憲法、教育勅語にもつながっている。皇室中心主義、忠君愛国の軍国主義、専制と弾圧で「日本精神」「日本固有の文化」を押し付けた。

1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。

しかし、戦後、三島由紀夫、石原慎太郎らが右翼文化人として戦前回帰の主張を行っていた。

平成5年(1993年)の慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話、平成7年(1995年)の村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)に衝撃を受けた右翼人らが、平成9年にたちあげたのが「日本会議」なるもの。

日刊ゲンダイのページもご覧ください。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/153143

また、今年7月19日付同様の記事が「現代ビジネス」のページでも掲載されています。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44128

2015年8月22日土曜日

ごみステーションへの「ルールを守らないごみの持ち込み」も不法投棄

ごみステーションへの「ルールを守らないごみの持ち込み」も不法投棄です。

法律による処罰の対象です。迷惑行為はやめてください。

(氏名不詳、住所不明の者による迷惑行為に当番の人も困っておられます。)



2015年8月21日金曜日

上中島 盆踊り

今日、上中島で盆踊りがありました。

お世話いただいた皆様、お疲れ様でした。

2015年8月20日木曜日

教育勅語、大日本帝国憲法、軍人勅諭に共通するもの

一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。

これが、教育勅語の後半部にあるくだり。

軍人勅諭、大日本帝国憲法、教育勅語のそれぞれにその主旨が貫かれているといっていい。

「いざ鎌倉」みたいに問答無用に戦争に駆り立てる教育の復活も断じて許せない。
...
しかし戦後70年というが、70年前はこんな教育が小学生(6歳児)から行われていたということが、おそろしい。

 

昨夜、私が見たNHKのアニメドキュメント「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~

これが昨夜、私が見た番組のNHKの紹介ページです。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586679/index.html


沖縄でのゲリラ戦 軍人勅諭が少年兵にも押し付けられていた

昨晩、NHKの再放送番組「戦争の真実をアニメ化」というのを見ました。不足した兵士を補うため14歳以上の沖縄の子どもを名目「志願」という形でゲリラ戦兵士として戦わせた。その中で、陸軍中野学校出の兵市から「(敵を)10人殺したら死んでもいい」と諭されたり、「お国のために死ねるか」と聞かれたら即座に「はい」と答えさせられる場面もあった。

戦争が国を狂わせた、人を狂わせた・・・というくだりがあったと思う。

けれども、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、大日本帝国憲法より、早い1882年(明治15年)に1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元にしてつくられたという明治天皇の名での軍人勅諭が大きな役割を果たしている。

その中で第一の項で
:一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

命を惜しまずということを強調している。私の小学校時代「烏合の衆」という言葉を使う大人がいましたが、陸軍では軍人勅諭全文を暗唱させる傾向があったとのこと。

ともかく、軍人勅諭の精神が大日本帝国憲法に引き継がれ、1890年(明治23年)10月30日に発布された教育勅語にも受け継がれているというべきでしょう。

戦前の日本の暴走は、軍人勅諭(1882年(明治15年))から準備されていたというべきだと思う。
だからこそ、戦争への最初の一歩、平和に反するつまずきを許すことはできない。

下記のアドレスでNHKの戦後70年の沖縄戦のページが見られます。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586683/

2015年8月19日水曜日

サルスベリ

サルスベリを剪定してポリバケツに投げ入れしてみました。

2015年8月18日火曜日

戦後70年で戦前の教育を振り返る なぜ軍国主義が国全体をおおったのか

戦後70年で戦前の教育を振り返ることは有意義だと思います。

「朝まで生TV」の番組の冒頭部分で右派論者が、「日本が戦争していた当時、ほとんどの日本人は戦争を支持していた」と語った。

それではなぜ、そんな社会状況がつくられたのか。
情報の統制、文化の統制、言論の規制、戦争に反対すれば非国民のレッテルがはられるような、国民同士を監視し合わせるような弾圧社会がどのようにしてつくられていったのか。
そのことにもっと目を向けるべきだろうと思った。

具体的に、どのようにして軍国主義教育がすすめられていったのか、その足取りを振り返ること、記録を現代に生きる人々の記憶として残すことが将来、同様の誤りを繰り返さないためにも意味あることだと思う。

私の母が「天長節」の記憶を子どもの頃の私に語ってくれたように記憶している。
戦前の小学校教育を受けた人たちが77歳以上という時代であるだけに、軍国主義教育が行われた時代の記録は普段に触れられる形で継承されていくべきと思う。

今まであまり力点が置かれてこなかったようですが、教育勅語、泰安殿(御真影=天皇皇后の写真をまつった建物)がすべての小学校に配置され、登下校の際に最敬礼させられた、天長節(小学生は登校して天長節の歌を歌い、教育勅語の朗読を拝聴させられた)の役割があってあの無謀な戦争の歴史があるということをあわせて考えるべきでしょう。

「神国日本」「神州不滅」「忠君愛国」など今でいうISみたいに世界から孤立する思想を「日本固有の文化」とか「日本精神」といって子どもたち、若者に注入していった歴史を近代史を学ぶとき、語るときに外してはいけない問題だと思います。

以下のように、ウィキペディアが一定の記述をしています。(一部補足の書き込みもしています)
1891(明治24)年に,文部省は小学校に祝祭日のお祝いの儀式を執り行うよう指示し、その儀式のときに歌う歌を選定し1893(明治26)年8月に『祝日大祭日唱歌』を公布した.。
この儀式唱歌の中には年配の人なら誰でも知っている,「年のはじめの ためしとて」で始まる『一月一日』や『紀元節』,『天長節』の歌が含まれる。
昭和の時代に入ると、明治天皇の遺徳をたたえる明治節(11月3日=明治天皇の誕生日)が新設され、明治以来の四方節(1月1日)、紀元節(2月11日)、天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)と共に四大節(しだいせつ)としてお祝いされた。
四大節の祝日には,家の門柱には国旗が掲げられ,小学生はよそ行きの洋服を着て登校した。

儀式では、
御影(天皇皇后の写真)開扉、君が代斉唱(2回)、
御真影(ごしんえい,天皇・皇后の写真)に最敬礼し、教育勅語の奉読、
校長の訓話を聞き、
祝日の唱歌を歌う、
御影閉扉で式を終わる。
堅苦しい儀式が終わると、生徒は担任の先生から紅白のお菓子をもらい、下校した。

というようなことが紹介されている。

私たち世代を含めて11月3日を「文化の日」と認識していますが、元は明治天皇の誕生日で在位中は天長節の日、昭和の時代20年の終戦までは明治節だったことなど、こうした記述に触れることで本来の由来を知ることができた。
なぜ、文化の日なのかは判然としないけれど。

ともかく、明治の初期から国家神道の普及に政府、文部省が極めて熱心に取り組んだこと、軍人勅諭に続く教育勅語が教育の基本にすえられたことがみてとれる。

Windows10で自分の住所地の気温表示や、当日の気温推移予測や週間天気予報の表示

Windows10を使っている方でご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、起動後に現れる画面に、東京の気温が表示されていますが、ここをクリックして自分の住所地の気温表示に替え、さらに設定後にここをクリックすると当日の気温変化予報や週間天気予報もワンタッチでみることができます。

2015年8月16日日曜日

名前を知らぬ花

畑一面に栽培されていました。

10万人以上が亡くなったという1945年3月10日の東京大空襲。いま、多くの国民が記録に触れるべきと思う。

1945年(昭和20年)3月10日の米軍による東京大空襲。
10万人以上が亡くなったという。

戦後70年たった今も語り継がれるものと思います。
下記のアドレスで紹介されています。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

この大惨劇があっても、なお戦争継続、本土決戦を叫んだという指導者の責任はどうなのか。沖縄戦も原爆投下も避けられたとの思い。

都市への無差別爆撃が非道に行われた記録として原爆投下とともにもきちんと語りつがれるべきものと思う。

安倍首相の戦後70年談話を読んでも、不再戦の真意は伝わってこない。

2015年8月15日土曜日

安倍首相の70年談話、読めば、読むほど

安倍首相の70年談話、読めば、読むほど問題点が見えてくる。

後半部での価値観を共有する国との連携による「積極的平和主義」も安保法案(戦争法案)への執念をにじませているし、

 「私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。」・・・というくだりはTPP推進との整合性はどうなのか。TPPがもたらす経済の国家主権との問題はどうなのか。

抽象的な表現でごまかされている…という感想は正しいのだろう。

安倍首相の戦後70年談話の歴史認識

安倍首相の戦後70年談話の歴史認識は、日清戦争・日露戦争をはじめとする日本が行った戦争を
①当時の列強が植民地政策をおこなっていたのにならった

②「満州事変」などの軍事行動に世界の批判が高まったことによる経済的な影響などを、単に「経済のブロック化」により日本経済は大きな打撃を受けた とすり替えている

③日本はやむなく戦争をはじめた という当時の指導者の主張をにじませるものとなっている

④日本の行った植民地政策への反省はなく、逆に植民地政策の結果である日露戦争を美化・正当化している・・・・他にも問題点はあると思いますが、列強に遅れて植民地政策を実行したらバッシングを受けた。そのために戦争に打って出たら世界を相手に戦うことになってしまった・・・という言い分がにじんでいるように思えるもので、村山元首相がこれならなしの方がよかったと語ったのは至当と思える。

以下は、首相官邸のホームページでの発表全文から歴史認識にかかる部分を抜粋したものです。
(首相官邸発表の70年談話全文からの抜粋)
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。


「1億総懺悔」は指導者の責任回避 多くの子どもを軍国少年、軍国少女に仕立てた教育や社会の正当化は認められない

昨夜、「朝まで生テレビ」を冒頭少し見た。右派の論者が「日本が行った戦争を当時の国民は支持していた」などとの発言に呆れた。

軍人勅諭、教育勅語で子どものうちから軍国少年、軍国少女に仕立て上げた教育を正当化するもの。

今の若い人達は知らないと思いますが、戦後のある時期「1億総懺悔」などという言葉があった。
日本が行った戦争の責任は日本人すべてにある・・・という主張のよう。
戦争に反対した人たちを拷問したり、囚人として弾圧した政府や軍の役割があったことも覆い隠す議論だ。

自由な発想やまともな国際情勢などを知らせない、情報と文化・思想の統制を行っていわば国民を思考停止に追い込んでいた政府のありようを正当化して、国民全体に責任があったというような論者を出演させるTV番組制作者や、番組の進行に今の局面の危険性を感じた。

賛否両論取り上げるといっても、一定の水準は必要だろう。

2015年8月14日金曜日

鈴なりのサルスベリ。

鈴なりのサルスベリ。

雨上がりの後でした。


51年間の戦争の惨禍と70年間の平和の尊さ

1894年(明治27年)7月~1895年3月の日清戦争、1904年(明治37年)2月~1905年9月の日露戦争を含めて明治維新後の日本が1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで1894年の日清戦争を起点に51年間、対外侵略戦争を行っていたとみるのが妥当と思われる。

画像は今日のしんぶん赤旗の記事。

日清戦争が日露戦争へとつながっていった流れをみるとき、同じ動機が日本の指導部にみられる。国際情勢とか、日本をとりまく環境とかいうのは、戦争をはじめる口実としての作文だった。

陸上戦での「突撃」作戦は日露戦争での要塞攻撃で繰り返され、203高地以外にもおびただしい戦死者を生んだ。兵士の命が軽視される傾向はこの時期からすでにあったよう。

戦況が明白に不利になって東京大空襲などが行われても「本土決戦」などを叫んだ指導者の暴走が止められなかった政治のありかたによって、さらに大きな惨禍となった歴史を考えても、また軍部が政治を牛耳ったことで、戦争が引き起こされ、壊滅的な結果となったことを考えても、今の安保法案(戦争法案というべき)は戦争につながるもので認められない。

軍事力の均衡(パワー・オブ・バランス)の考え方は軍拡競争を正当化する考え方で、これで平和が保たれないことは近代の歴史が証明している。

諸外国に犠牲と被害を押し付け、自国の国民にも戦死者や傷病者を生んだ歴史と
都市が空爆の対象となるなど一般市民が巻き込まれることが避けられない今日の戦争のあり方を見つめるべきだ。

「突撃」「特攻」いずれも人命軽視の発想と感じられるし、死者数10万人以上という1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲後も戦争継続した当時の指導者の人命に対する感覚は、もっと批判されるべき性格のものではないだろうか。



2015年8月13日木曜日

猛暑の中のバラ

猛暑の中、バラはバラとして咲く といった感じで最後まで頑張る風情に感心しました。

2015年8月11日火曜日

モミジアオイと教えていただきました。

最近、福崎町、市川町で見かける花です。

モミジアオイと教えていただきました。


中道線での雑草繁茂が改善されました

上は7月19日、下は今日のNTTの施設の中道線そい(田原幼児園駐車場の向かい)のようす。

役場にNTTに対して「雑草繁茂の改善の要請」を以依頼していましたところ、除草、選定作業が行われたとのことでした。

すっきりと改善されました。


2015年8月10日月曜日

ソウメン流しの竹は4.4m

8月8日のミニデイでの七夕会の片づけを昨日しました。

ソウメン流しの竹は4.4mありました。

昨日(8月8日)の 福崎夏まつり のにぎわいのようす


今日、行われた福崎夏祭りでの花火

今日、行われた福崎夏祭りでの花火の一部。

毎年のように撮っていますが、難しいと感じます。