1905年(明治38年)9月5日に日露戦争の講和反対、戦争続行を叫んで日比谷公園に集まった群衆3万人の一部が暴徒化して警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。
戒厳令がしかれたと司馬遼太郎は具体的な数字をあげて「この国のかたち 一」で書いている。
「国民新聞」をのぞく各新聞がこぞってこの気分を煽りたてた。(賠償金なしの講和など認められないという内容)
日本海大海戦の勝利に沸く民衆。(新聞の報道の影響もあった)
戦争が長期化すれば日本が不利になるとの日露双方の認識が日本の国民には伝えられなかった。
戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義と、煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあったーと司馬遼太郎は書いている。
この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えているーとも司馬さんは書いている。
「坂の上の雲」で日本海大海戦勝利までを描いた司馬さんがその後の日本史の40年間を魔の季節と呼んでいること。生前「坂の上の雲」の映像化を拒まれていたということなど、納得できるような気がする。
1933年(昭和5年)満州国の建国を認めないという国際連盟の総会の対日勧告案の可決に抗議して日本は国際連盟を脱退するが、新聞各紙は政府、軍部の方針を批判することはなかったよう。
軍国主義1色になることに新聞も加担していった歴史がある。
近代史を扱った本もあるが、こうした事件をきちんと取り上げているものは極めて少なく、司馬さんの記述は行数、文字数としては少ないが、貴重なものとおもう。
日本の近代史において新聞が果たした役割の象徴的な事件についてとりあげた司馬さんの思いは現代に通じていると思う。
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