高砂市の入浜権運動が35周年と聞く。
昭和50年(1975年)2月に入浜権宣言を運動団体として、東京の集会で行われたという。
それから35周年ということだが、昭和48年(1973年)には、高砂市への住民団体の要望書として「入浜権」という言葉が用いられていたそうだ。
入会権というのがあるが、それよりもずっと広い意味で、住民の「海辺に出て、散策したり、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、・・・」という行為を地域住民の保有する法以前の権利であった。この権利を保有することの宣言が行われてから35周年という。
漁業権などで、不特定多数の人が特定の場所で貝類とか魚をとることを禁じられていることがある。
それとは、全く異なり、工業化の進行の中で、工場などが土地の所有権と行政の許可をもって、砂浜を埋め立て、住民の海辺への立ち入りもできなくするという、流れに歯止めをかけようとした運動の意義は大きい。
砂浜が大規模に失われたことが、海の浄化能力を弱めているのではないかとする見方もあるようだ。
瀬戸内海の環境保護の運動も当時、高まっていた。
私が子どもの頃は、いなかでは牛を農家の方が飼っておられた。そうした家の子どもは、草を刈ってきたりすることが親孝行だったようだ。
人々が山へも、きのこや、風呂などの焚き物などを求めて立ち入り、川では(私の家の用水路は、5月から8月頃の間しか流れないが、小学校に入学前のころにコンクリートで整備され、その時に洗濯や洗い物ができるような降り場が作られた)洗い物など、生活のなかに、山や川があった。
当時は、山道や川への降り口など、多くの人が繰り返し、定期的に利用していたから、自然に保全されていた。
生活様式の変化で、川で洗い物などしなくなったが、合成洗剤等の普及が川や海の富栄養化という問題を引き起こした。
下水道の普及で、川や海の富栄養化の問題は改善しているが、景観とか環境、防災という面では、人々が定期的に立ち入らなくなったことで、荒廃という減少が、山でも川でも深刻になってきている。
35周年ということの集会も2月に高砂でおこなわれたという、報道記事を思い出しながら、種々考えさせられた。
高砂市の住民の方々が全国に先駆けて、「入浜権」運動をすすめられたことの意義は大きいし、細部で意見のちがいはあっても、継続して運動をつづけられた取り組みは貴いと思う。